白い大陸に踊る"ウィスパーダンサー"

ヤマハTW(改)と共に「北極点」に立ってから5年後の1991年、今度は地球の反対側の「南極点」に向けて、僕は再び特別仕様の専用マシン"ウィスパーダンサー"のハンドルを握った。

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KAZAMA SHINJI COLUMN 「地球に遊ぶ」

Vol.52

白い大陸に踊る"ウィスパーダンサー"

CATEGORY:地球に遊ぶ

ヤマハTW(改)と共に「北極点」に立ってから5年後の1991年、今度は地球の反対側の「南極点」に向けて、僕は再び特別仕様の専用マシン"ウィスパーダンサー"のハンドルを握った。季節はちょうど今頃(12月)のことである。

▲南極の雪原を激走する?に見えるが、フロントタイヤの雪面への潜りに注目。

世間では一年の括りとしてのクリスマスや正月を祝うこの時期に、いつまで続くとも知れない極寒地での氷雪との激闘はかなりの困難なものであった。
北極遠征の、落ちたらひとたまりもない5000mの海底の脅威に対し、今度は踏み外したら万事休すの"クレバス"の脅威であった。この命がけの遠征の主たる目的は、言ってみれば単に「オートバイによる史上初の南極点への到達」というものだったが、他にも南極大陸は国際法(1959年の南極条約)で「いかなる国も領有権を主張しない」ことで一致した世界人類共有の未来につなぐ"新天地"であることから、特別の配慮(リスク)を課せられた特殊な遠征だった。
すなわち、使用マシンは雪上における優れた踏破性に加えて、NOxやCO2など「環境への最大限の配慮を施した低騒音・低公害」のオーダーマシンであることが望まれ、その快挙をもって「世界の健全なるモータリゼイションの普及に寄与する」という演出だった(お陰で、北極マシンより30kgも重いマシンとなり、押すのが大変だった。苦笑)。

▲一見、固そうに見える雪原もバイクを走らせると、後輪は一瞬にして深い雪にはまってしまう。傍らで呆然と佇む僕。
▲こんな感じで一日たった2kmの進行の日もあった。
▲途中から使用したフロントのスキーで前輪の潜り込みを防ぐが…?

遠征費は1億4000万円也!

そして、この遠征に費やした費用の総額は?なんと1億4000万円という膨大な金額(マシンの製作費も実費換算で1億円を超えた)。その中身の殆どは航空機のチャーター代である。先ずは遠征の後方基地となる南米チリ最南端の町「プンタエレーナス」の空港まで、4発のレシプロエンジンのDCl6でマイアミから運ばれ、そのプンタの空港から南極半島の付け根(海から25kmの内陸)に設けられた「パトリオット・ヒルズ」のベースキャンプまで7時間のフライトを要して、ようやく南極遠征は始まるのだった。雪原に設けられたベースキャンプには、その先の内陸部への補給フライトに使用する小型航空機(ツインオッターとセスナ機)が駐機し、それらの航空機が使用する燃料のドラム缶が400本以上も立ち並んでいた。遠征費用の中で航空機のチャーター代とガソリン代がほぼ8割を占めるのはその辺りが原因となる。ちなみに、僕がこの遠征で使用したバイクのガソリン代は?1リットルで6万円だった。

▲巨大なエアークリーナーとサイレンサー他、様々な環境への配慮と、同時に極寒での対策が施されたウィスパーダンサー。
▲チャーター機のDC-6で南極に初上陸した"ウィスパーダンサー"。後ろの地上に降ろされた様々な物資が僕の遠征に使用するもの全てだ。

と、そんな訳で、南極点への遠征の思い出は際限なく、どこまでも続くのですが、1991年の11月初旬に開始したこの遠征は翌12月7日にベースキャンプを出発して悪戦苦闘の結果、28日目(翌年の1992年1月3日)にして念願の「南極点」に、僕と"ウィスパーダンサー"(白い大陸で静かに踊る意から名付けた)はめでたくゴールを決めたのでした。
当時のご声援、本当にありがとうございました。

▲夏は120人の隊員たちが暮らす「USAサウスポールステーション」の中から大勢の人達が出て祝福してくれた。夜はシャワーを浴びて良いというのと引き替えに隊員たちの前でホールでの講演会をやらされて困った。
▲南極の海から走って28日目、念願のサウスポールに到着したウィスパーダンサー号。
▲1990年の11月、南極への初テストでセローを持ち込んで、その可能性を試した。この時のセローの馬鹿でかいサイレンサーに注目です。
▲遠征を終えて、ホッとする僕。この時、気温はマイナス26℃。僕にはまるで「夏」にも思える気温だった。

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