自然に従う態度で臨んだ我が「北極点」への旅。

バイクで北極点へ?と、このとんでもない発想の原点となったのは当時の僕の「焦げ付く」くらいのバイクへの情熱がもたらした「究極の夢」だった。

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KAZAMA SHINJI COLUMN 「地球に遊ぶ」

Vol.51

自然に従う態度で臨んだ我が「北極点」への旅。

CATEGORY:地球に遊ぶ

四方を海に囲まれ、豊かな自然に恵まれた日本人は、自然は「有るのが当たり前」的感覚をもって、ここに至るまでの間、思うままの生命活動を続けて自然界への進出を図ってきた。その一方で自然界もまた進化や変化を遂げる。有る地点における自然(地形)は長い時間的経過の中では当然の如く、時には激しい気象状況や気候変動の影響を受けながら地形の流出・変化を自然なる「営み」として繰り返してきた。
ここで、私たちが考えるべき本当の反省課題とは?自然を人間の都合によって造り替えていく「傲慢」な文明社会ではなく、人間が自然の営みに寄り添う形のライフスタイル(調和と畏敬の念)をもって、永らく持続可能な社会を形成していく謙虚な態度の文明社会ではないだろうか?

さて、そんな自然に対する調和と融合の姿勢で思い出すのは、僕が27年前にバイクで行った「北極点」の遠征である。正に調和の精神で行わなかったら、この遠征は絶対に成功出来なかっただろう。

▲1987年4月20日、念願の北極点にて

バイクで北極点へ?と、このとんでもない発想の原点となったのは当時の僕の「焦げ付く」くらいのバイクへの情熱がもたらした「究極の夢」だった。
そのプロセスは

  1. 少年時代:生家の裏山にバイクを押し上げ、山頂で世界に開眼する
  2. 学生~社会人:明けても暮れてもバイク、バイク、バイクの日々の中、MXレースと林道ツーリングに夢中となり「地平線」の三文字が座右の銘となる。そして、バイクの魅力=自然の魅力と気づき、地平線の旅に出る
  3. 自然を「極める」はバイクを「極める」ことと悟り、冒険家の道へ
  4. 世界中の自然の無限なる広がり(水平地平)と高さ(垂直地平)をバイクで追ううちに、地平線の終着駅となる(地平線が一点に交わる)南北の「極点」に向かわなければ、自分の目指す「バイク道」は永遠に収束しない

…と考えた次第。

1987年3月7日。史上初の北極点への挑戦マシンは、当時、発売を間近に控えたTW200だった。リアに装着した極太タイヤは氷上での駆動力に大いに期待が持たれ、エンジンは4ストから寒さに強い2ストローク(TY250)に変更。他一切の極寒用装備は心強いYAMAHAのスノーモービル開発によって培われたマイナス60℃設定。製作費は1台1400万円(2台作った)。遠征の全体費用はガソリン、食糧などを補給する航空機や一切のサポートを含め、総額は1億2千万円というものだった(そんな膨大な費用を集めるモチベーションは、他ならぬバイクへの情熱だった)。
そして、キックオフ!
北緯83度07分――北半球の最北に位置する島「ワードハント島」から遂に北極点に向け出発した僕とTWの「北極コンビ」が現場で直面した現実の課題は、想定していた固い「氷」の路面より、むしろ柔らかい「雪」の方に問題があった。海上を覆う平均2mの厚さの氷の上には100%の深い積雪があり、深くタイヤを捕らえて進行を阻んだ。その上に、随所に激しい海流によって出来た「乱氷帯」(氷と氷が迫り上がり、巨大氷がゴロゴロと転がる迷路)が現れて行く手を更に遮るのだった。

▲こんな乱氷帯に入り込むと、なかなか出てこられなくなる。
▲乱氷の上に登って、向かう前方のコースを読む。
▲TW200を2ストローク化して北極専用に作られたノースポール・スペシャルマシン。
▲パックリと口を開けたリード(氷の亀裂)の横に出来たばかりの新氷の上を渡る。氷の厚みは10cmほどしかない。

究極の悪戦苦闘。視界がまったく確保出来ないホワイトアウト。かと思えば、氷が割れパックリと海表面が口を開ける「リード」。気温マイナス54℃、寝袋の内部まで凍りつく。そんな中、毎日祈るような気持ちでバイクを押し、足元の僅かな隙間ほどの前進でも自分に与えられた「極点へつづく道」として、ひたすら黙々と前進させた。なぜなら、ここでは人間の発揮する闘志や意思の力などは一切通用せず、運命の決定は自然が行うものだから、勝負はひたすら「直向き」の態度と「祈り」しか無かった。
―― と、正に謙虚な態度で北極点に臨んだ僕とTW。とうとう出発から47日目、史上初のバイクによる北極点への到達の快挙(史上13隊目)をものにしたのだったが、自然に逆らわず、自然に従い、自然に対して従順なる態度がゴールへの到達をもたらしたのだと、今も理解している。

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